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各宗派の経典

天台宗の式文(光明供)

天台宗の葬儀には、大きく分けて密教儀礼である光明真言の秘法に基づくものと、顕教儀礼である阿弥陀の力によって浄土に導く作法があります。

ここでは密教儀礼である引導式のなかの「光明供葬送作法」を取り上げました。

経典

意訳

慎み敬って、真言教主で清らかな法体である大日如来。西方浄土に導き下さる阿弥陀如来。広大無辺の仏の教え。観音、勢至他大菩薩。舎利弗、目連、多くの修行者。および無数の国土、仏眼の照らされる一切の三宝に対して申し上げます。

まさに今、南部人間界日本の何州のこの道場において、一心清浄の誠をもって、新円寂(戒名○○)の葬儀の儀を整えます。光明真言の秘法を修します。その主旨は、罪を滅ぼし善を活かすこの勝用は、光明真言の効力によるのがよく、この身のままで仏になる重要な技術は、三蜜ヨーガの技法によるのが一番であります。これにより、わずか一度唱えれば、遠い過去に犯した罪を消滅させ、わずか一音を聞いただけでも、計りしれない功徳を得ることができます。誠にこれは本当の仏と仏の境界、速やかに悟り、速やかに効果のある秘密の術であります。

伏して思えば、かつて故人は意識や物質が集まって肉体となり、人間界の巷に仮に宿ったものであります。ここで地水火風空識の六大世界の悟りを開いた心は、ついに東の丘の煙になってお隠れなさいます。悲しいかな生者は必ず死ぬという掟、痛いたしいものは、会う者は必ず別れるという定めです。仏法僧に帰依して冥土の宝になるのがよいでしょう。

ここに光明密教の隠された智恵を修して、葬送の祈願の法式を整えます。これにより死者はたちまちにして、地獄から菩薩界までの九界の暗い路を出て、十転して明るく開いた暁に出ます。速やかに四仏の素晴らしい台坐に入り、大日如来の五智に満たされた光に入ります。そこは真実の世界で益を得、清められます。よくよく法が久しく住み、利益は人天に及んで、過去の死者も等しく悟りを得るようにされます。

大いなる大日如来に帰依します。金剛手菩薩に帰依します。亡き魂のための葬儀の場とは、罪を滅し善を生む機会とし、法の味を食し功徳を証明するためであります。冥土の官吏や人々がこの場に集い現われますので、それぞれ法楽荘厳威光増益のために、供養として般若心経、大般若経名を捧げます。

インド、中国と伝わったの諸大師等の行願が満ち、頼る者のないすべての死者の霊が皆仏道をなすために。大いなる大日如来に帰依します。金剛手菩薩に帰依します。日本が安穏で天皇の延長のために奉ります。大いなる大日如来に帰依します。信心英檀、健康で延命、諸難の消除のために。大いなる大日如来に帰依します。ないし法界平等利益。大いなる大日如来に帰依します。決定法成就のために大いなる大日如来に帰依します。一字金輪仏頂に帰依します。一切三宝に帰依します。

真言宗の経典(理趣経)

真言宗には多くの分派があり、葬儀次第も多少異なります。ここでは故人に戒名が授けられた後に誦られる「理趣経」を取り上げます。この経典は、金剛菩薩の加持によって煩悩が浄化され、真実の智恵に照らされることを説いたものです。その他、光明真言、 舎利礼文、陀羅尼などが誦られます。

経典

意訳

このように私は聞いている。ある時世尊は、すぐれたすべての仏の金剛のように不壊なる不思議な力が働く真実を悟る智恵を完成し、すべての仏の仏位につく印に頂く宝冠を得て、あらゆる世界の主となった。

すべての如来のあらゆる智恵のなかの智恵である仏知が瞑想によって自在に相応することを悟り、すべての仏の印のしるしによりあらゆる存在は平等であると悟る事業をなしとげた。

つきることも余ることもない全ての世界で、心に願うところの全ての働きを完全に成就させている。過去・現在・未来のすべての時に、身体と言葉と心の働きが金剛のように堅固である。

大日如来は、欲望の世界の最上部にある他化自在天王宮にいる。それはすべての如来が思いのままにいて、その素晴らしさを賛えるところの宝珠で飾られた宮殿である。それは種々に飾られ、鈴や絹幡が風に揺れ、花輪や瑶珞は半月や満月の形で飾られている。

大日如来は八十億もの菩薩とともにいる。それらの菩薩は、金剛手菩薩摩訶薩、観自在菩薩摩訶薩、虚空蔵菩薩摩訶薩、金剛拳菩薩摩訶薩、文殊師利菩薩摩訶薩、纔発心転法論菩薩摩訶薩、虚空蔵菩薩摩訶薩、摧一切魔菩薩摩訶薩である。如来はこうした菩薩とともにおり、それらは敬いながら取り囲み、そこで彼らに真理を説きあかしている。

その教えは初めに善く、中ほどに善く、後に善く、その言葉は妙なるものがあり、混じりがなく完全で、清らかで汚れがない。あらゆる存在はそれ自体本性が清らかであるという教えを説いた。妙なる快楽は本来清らかであるという句は菩薩の立場である。欲望の矢が本来清らかであるという句は菩薩の立場である。接触が本来清らかであるという句は菩薩の立場である。

浄土宗の経典(阿弥陀経)

浄土宗では故人を西方浄土に送るというのがその主旨であります。浄土宗では『無量寿経』 『観無量寿経』 『阿弥陀経』の浄土三部経を基本の経典としています。このなかでも『阿弥陀経』は最も短く、浄土の思想が簡便にまとめられているので、多く読誦されています。内容は、極楽往生を願う者は、阿弥陀の名号を1日ないし7日間念じるならば、極楽に往生できると説いています。

経典

意訳

私は次のように聞いた。ある時お釈迦様は舎衛国の祇園精舎に、1250人の僧たちとおられた。彼らは皆理想的な修行者として知られていた。上座の長老である舎利弗、摩訶迦葉、摩訶迦旃延などの偉大な弟子たち、ならびに多くの菩薩様である、文殊菩薩、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩などの偉大な菩薩の方々と、帝釈天等の数えきれない大勢の神々と大衆がいた。

その時、釈迦は長老の舎利弗に次のように語った。ここから西方に十万億の仏国土を過ぎると極楽世界がある。そこに阿弥陀仏がおられ、現在教えを説いている。舎利弗よ、その世界を極楽と呼ぶのは、そこの人々には苦しみがなく、楽しみだけを受けるために極楽と呼ばれる。

また舎利弗よ、極楽国土には七重の欄干や七重の珠飾りの網や、並木があり、これらすべてが四種の宝物で取り巻かれているために、この国土を極楽という。また舎利弗よ、極楽には七宝の池があり、そこには八つの功徳のある水が充満している。池の底には金の砂が敷詰められ、池の四方の階段は金銀瑠璃などで飾られている。池の中には車輪のような大きな蓮華が咲き、青蓮華は青く、黄蓮華は黄色く、赤蓮華は赤く、白蓮華は白く輝いて微妙な香が漂っている。舎利弗よ、極楽国土にはこのような徳をそなえた装いが備わっている。また舎利弗よ、その国土では常に天の音楽が奏でられ、地面は黄金であり、昼夜六回にわたって曼陀羅華の花が降る。

そこの人々は、朝には器に美しい花を盛って十万億もの他の国土の仏に供養する。食事には本国に戻り、食事をし散歩をする。舎利弗よ、極楽国土にはこのような徳をそなえた装いが備わっている。

また次に舎利弗よ。その国には色々珍しい色の白鳥、孔雀、鸚鵡、百舌鳥、迦陵頻伽(妙音鳥)、共命之鳥(命々鳥)などの鳥がおり、これらの鳥は昼夜六回美しい声でさえずる。その音色は五根五力、七菩提分、八聖道分などの教えを説いている。そこの人々は、この鳥の声を聞き終わると、誰もが仏や教えや僧を念じはじめる。舎利弗よ、この鳥が罪の報いによって生まれ変わったものと考えてはいけない。それは仏国土では、地獄・餓鬼・畜生の世界は存在しないのである。舎利弗よ、仏国土にはこうした悪道の名前すらないので、その実がないのである。これらの鳥はみな、阿弥陀仏が教えを説くために鳥の姿に変化したものである。

浄土真宗の経典(正信偈)

浄土真宗の葬儀の目的は、偈文、和讃、念仏を唱えて、仏の徳を賛えて本願の力を仰ぎ、故人に対しては生前の徳を偲び、永遠の別れを告げるものであります。葬儀式に限らず主要な儀式に用いられる経典は、浄土真宗の開祖・親鸞が著した『正信偈』です。これは『教行信証』第2巻の末尾に収められている七言を一句とした120行の偈で、前半は釈尊がこの世に出られたのは、一切の人々は弥陀の本願力によって救済されるという教えを説くためであるということが書かれています。後半は「浄土経」を伝えた七人の高僧の徳を賛え、その教えの要点をまとめたものです。

経典

意訳

かぎりないいのち、不可思議な光の仏に帰依します。

この仏が以前法蔵菩薩と名のられ、世自在王のもとにお仕えになられた時、無数の仏の浄土に生まれる原因や、その国と人の善悪を見て、この上ない願いを立て、広い誓いをおこされた。五劫もの長い間の思案の末、再び自分の名前が十方に届くことを誓われました。すべての方角に無量の光が、さまたげない、比較できない光の王、清らかで喜びと智恵の光、絶えることのない絶妙な光として、日月の光を超えた光を放ち、生きとし生けるものすべてがその光に照らされます。

本願にかなう仏の名こそ、往生のための正しい行為であり、信心は悟りの種であります。信をうければすでに仏と等しく、やがて必ず悟りに至るのは、本願の成就であります。釈迦や仏がこの世に現われたのも、阿弥陀のこの大きな誓いを知らせることにあったのです。汚れた世界に生きている人々よ、この阿弥陀の願いを信じてほしい。

一度信心の心を起こすならば、煩悩のままで悟りに至ることが出来ます。凡人も聖人も等しく救われるのは、川の水が海に溶けて一つになるのと同じです。救おうとする仏の心は常に照らされて、すでに無明の闇を破られていますが、むさぼりや怒り、憎しみの心が常に信じる心を覆っているのです。たとえ日光が雲や霧に隠されていても、その下は明るいように、信をえて敬い大いに喜ぶならば、すぐに重い罪でも絶ち切ることができます。どんな悪人であろうと、阿弥陀仏の誓いを聞いて信じるならば、仏は真実のわかった人といって、その人を白蓮華の人と名付けます。阿弥陀の本願の念仏は、よこしまで奢り高ぶった人には信じることが困難で、これ以上ないほど難しいことです。

インドの学者や中国・日本の高僧が、釈尊がこの世に現われた理由は阿弥陀の誓いが我々凡夫のためであることを開かすことにあったことを示されたのです。

臨済宗の経典(大悲心陀羅尼)

臨済宗では枕経に『観音経』あるいは『大悲心陀羅尼』を読誦します。

また葬儀にも『大悲心陀羅尼』を読誦します。この『大悲心陀羅尼』は、正式の題目を『千手千眼観自在菩薩円満無礙大悲心陀羅尼』といい、千手観音菩薩の功徳を賛える82句のダラニ(呪文)からなっています。この陀羅尼には、すべての悪鬼に打ち勝ち、迷いの世界を浄化する力があるとされ、臨済宗ではこの陀羅尼が最も読誦される頻度が多いものです。

経典

意訳

仏法僧の三宝に帰依します。大慈悲をもつ観自在菩薩に帰依します。あらゆる畏怖において庇護するお方に帰依します。

私は観自在菩薩の威力をもつ青頸(観自在菩薩)の真言、すべての願いを成就する光輝に満ちた吉兆で、すべての悪鬼に打ち勝つ、迷いの世界を浄化する真言を読誦します。すなわちそれは、次のようなものです。

オーン、光明よ。光明のごとき智恵を持つ者よ。世間を超越する者よ。オオ、ハリよ。偉大な菩薩よ。真言を心に念じ記憶したまえ。その行為をなしたまえ。完成したまえ。(真言を)よく保ちたまえ。勝利者よ、偉大な勝利者よ。(真言を)よく保ちたまえ。優れた大地の主よ。行動したまえ。汚れなき者よ。汚れなき身体をもつ者よ。来たれ。世界の主よ。貧りとよぶ害毒を除きたまえ。愚かさから来る心の動揺を除きたまえ。取り去りたまえ。汚れを取り去りたまえ。流れ出たまえ。現われたまえ。進みたまえ。正覚したまえ。正覚を与えたまえ。

慈悲深き青頸(観自在菩薩)よ。求める者に姿を見せ歓喜させる者よ。願いを成就せしものに。偉大なる成就者に。ヨーガの行法に自在なる者に。青頸に。猪と獅子の顔を持つ者に。一切の大成就者に。蓮華を手にする者に。円輪で戦う者に。ほら貝の音で開悟させる者に。大きな棒を携えた者に。左肩にまします黒色の勝利者に。虎の皮の衣服を着た者に。三宝に帰依します。聖なる観自在菩薩に帰依します。すべての願いが成就しますように。真言の諸句に。

曹洞宗の経典(修証義)

曹洞宗の葬儀は釈迦牟尼仏、達磨、道元禅師と伝わる「血脈」の中に、故人も連なることを明かにします。葬儀に用いられる経典には、『舎利礼文』『修証義』などがありますが、この『修証義』は、道元の著した『正法限蔵』の教えを、一般の人にもわかりやすく明治23年に編集されたものです。

全部で5章、31節、3704文字からなり、在家を対象とした葬儀・法要に重用されています。

経典

意訳

生とは何か、死とは何かをを明かにすることは仏教者としてもっとも大事なことである。

生死の迷いの世界に仏にあうことが出来れば迷いはない。ただ生死も悟りの世界と心得えれば、生死を厭うこともなく、又悟りを願うこともなくなる。この時はじめて生死の迷いから離れることができるのだから、もっとも大事なこととして極めるべきである。

人は輪廻を繰り返すが、人として生まれることは難しく、まして仏の教えに出会うことはまれなことである。今私たちは前世の功徳によって、こうして受けがたい人間として生まれたばかりでなく、合うことが難しい仏法にも出会うことが出来た。これはまことに輪廻における良い生まれ方であり、すぐれた生まれ方である。幸いにこのように生まれ方をしたのだから、いたずらに人生を過ごすことがあってはならない。

世界は無常で頼りないものだから、どんな死に方をするかも知れない。自分の命は自分ではどうにもならず、年月は素早く移り変わっていく。若いときの力はすぐになくなり、済んでしまったことに再び合うことは不可能である。無常の時が到れば、国王、大臣、召使いから妻子、宝に到るまで何ら助けにはならない。一人で黄泉の世界に行くだけである。

自分がそこに持っていけるものといえば、ただ自分が作った善と悪の行ないの結果だけである。この世の因果の理を知らず、この世で行なった行為の報いを明かにせず、前世と今世と来世の因果を知らず、善と悪とを区別することも知らない人々には交わってはならない。

およそ因果の道理ははっきりとして公平である。悪をなした者は地獄に落ち、善行を積んだ者は善き世界に昇ることは全く間違いのないことである。もしこの因果の法則が無効であるならば、仏が世の中に出てきた意味も、祖師の達磨が西から仏法を伝えた意味も失ってしまう。

善悪の報いの法則に三つの時がある。一つは、行為をなした報いがその生涯の間に現われる順現報受、二つは、善悪の報いが来世に来る順次生受、三つは善悪の報いが再来世あるいはそれ以後に来る順後次受である。これを善悪の報いの三時という。

佛祖の道を修め習うのも、この三時の業報の法則を明かに知るためである。そうでなければ、多くの人は誤って間違った考え方を持ってしまう。ただ間違った考えを持つばかりでなく、悪道に堕ちて長い間苦しみを受けることになることを知らなければならない。

今の人生は二度とないので、空しく人生を過ごすことがあってはならない。悪を作りながら悪ではない、その報いはないと考えて、悪の報いを理解しないようではいけないのである。

日蓮宗の引導文

日蓮宗では釈迦が法華経を説いた霊鷲山に故人を送ることを主旨としています。

葬儀に誦る経典として「法華経法便品」「法華経寿量品(自我偈)」などがありますが、ここでは引導文の最初の部分を取り上げています。

経典

意訳

仏・菩薩の降臨をお願い申し上げます。

輪円具足しいまだかってない大曼荼羅御本尊に帰依します。

久遠実成の大恩教主で、根本の師である釈迦牟尼仏に帰依します。

証明法華経多宝大善逝に帰依します。

十方分身三世の諸仏に帰依します。

上行・無辺行・浄行・安立行等の大地より出現された六万無数の諸大薩・に帰依します。

文殊・普賢・弥勒・薬王薬上・勇施・妙音観音等迹化の教化を受けて他方から来遊された大権(仮に現われた)の薩・に帰依します。

舎利弗・目連・迦葉・阿難等の、途中から教えを聴きに来た諸修行者に帰依します。

殊に末法有縁の大導師である宗祖日蓮大菩薩(大聖人)に帰依します。

当宗派が開山して以来の歴代の諸上人、立場を異にされる閻魔法皇、五道の冥官冥衆等全ての方々に申し上げます。

まさに今この道場に棺を安置し、葬送の儀式を修する所の一霊魂があります。このたびその俗名を改め、新たに法号を授与して○○と号します。これは法華経を受持された行者であります。お願い致したいのは、上より降臨なされた諸尊よ、哀れみのみ手を差し出されて、故人の霊を寂光の仏土へ、おさめとって導いて頂くことでございます。

(棺に向き直って)新帰寂(○○)、今(故人の)霊の為に仏祖の要文を読み上げますので、それによって釈迦が法華経を説いた霊鷲山に至る教訣といたします。よくよく聴いて、これを正しく思い保って下さい。(以下略)

神社本庁の葬場祭詞

葬場祭では饌が供えられた後、斎主が祭詞を奏上します。そのあと玉串奉典が行なわれますが、ここでは故人の名と死亡年月日などが記された葬場祭詞を取り上げました。

経典

意訳

道中の前と後ろを厳かに警固しつつ、お供としてまいりました。

さてこの清められた場所に於て、暫くの間、祭壇を設置し回りには幕をめぐらしました。真榊を用意し、旗も数多く準備し、霊柩をかついで安置いたしました。

さて誰々(故人名)の前に、誰々(神官)が謹んで申しあげます。「あなた(故人名)は病気が重くなってお悩みになってから、医師の力を頼み、看護のすべてを尽されたのでありますが、命にも限りがあり、○月○日○時、病気が急変し、今年○歳で人生の限りとして亡くなられました。これは大変に惜しく、哀しいことの極みであります。

哀れ汝(故人名)は○年○月○日に何某(親名)の子として出生されました。心は清く明るくまっすぐで正しくて、世のため人の為に思いをこらし、力を尽くされ、その志や功績は高く明かであります。(女性=哀れ汝は心優しく、美しく、万事に一生懸命つくされました。)

皆、あなたこそ長生きで長寿であろうと、千年も万年も生きてほしいと頼みにしていましたが、哀れにもこの世ほど定めのないものはありません。人の年令も頼みにはなりません。今このように隠れになった身の上を嘆き哀しみ、惜しみ慕うことも限りのないことでありますので、人の世の習慣に従って、今葬儀を執行しようと幣帛を奉り、またお供えの食事、酒、山海の物を並べました。

親族家族をはじめ、遠近より齋場に一杯になるほど人々が列を連ねました。会葬の人々が、最後の別れにと進み出て、榊の葉の露に涙を添えて玉串を手向け賜ますので、どうか平安の心で受けてほしいと、謹んで申し上げます。

天理教の葬場詞

天理教では人の身体は神の借り物であるから、人の死とは、借り物の身体をお返しして出直すこととなります。天理教の儀式は神道儀式によく似ていますが、ここでは葬場詞を取り上げました。

経典

意訳

齋場に安置されている○○君(主=男子)(刀自=女子)の棺の前に、…慎み敬って申し上げます。「あわれなる君よ、昨年の○時頃以来、体がすぐれず養生されていたのですが、段々に病気が重くなって、親族や家族の方々も集まって悲しんでおられたが、早く苦しみを救おうと、夜昼なく看病されていました。いつかは心が落ち着き、回復される姿を見たいものと、親神に祈っておられたのですが、この世には限りがあるのでしょう。○月○日、にわかに姿が見えなくなったように、この世から出直されたことは悲しみにたえません。あわれ

今日からは君の言うことは聞こえなくなり、明日からは君の姿を見ることが出来なくなり、雨雲の空がにわかに暗くなるような気持ちがします。まして妻子、親族、家族の人々は暗やみの中で灯を失うようであり、また漂う船の舵取りがいなくなったように、憂いとまどい、言う言葉もないままに、枕元にうろうろとし、足元に腹ばいになって悲しむ慕う、これも人の情の現われでしょう。

しかし現実の世はこういうものであるのならば、今は教えの定めた式に従って葬儀式に仕えて奉らおうと、前に酒、食事、山海の様々な物を捧げて、永き別れを告げ奉りますことに対して、心が平和で安らかになるよう承知されて、この墓を千年の住居となされて、末永く鎮まりませ」と恐れ多くも申し上げます。

カトリックの御言葉(みことば)

カトリックの葬儀では葬儀ミサが行なわれますが、その順序は入祭の儀、みことばの典礼と続きます。そのあと告別式に移りますが、ここでは「みことばの典礼」に用います詩編をとりあげました。

経典
みことばの典礼

1)
谷川の水を求めて、あえぎ、さまよう鹿のように、神よ、わたしはあなたを慕う。わたしの心はあなたを求め、神のいのちにあこがれる。いつになったらみ前に至り、あなたを仰ぎ見られるのか。思い起こせば心は高鳴る、喜び祝う人々とともに、感謝と賛美の声を合わせてわたしはみ前に進み出た。あなたの光とまことを送ってわたしを導き、あなたのすまい、聖なる山に、わたしを招いてください。わたしは神の祭壇に行き、わたしを喜ばれる神の前に進む。わたしの心はなぜうち沈み、思いを乱して嘆くのか。希望をもって神に賛美をささげよう、わたしの救いわたしの神に。(詩編42より)

2)
神は恵み豊かにあわれみ深く、怒るにおそく、いつくしみ深い。罪に従ってわたしたちをあしらわず、とがに従って罰せられることはない。父が子どもをいつくしむように、神の愛は神をおそれる者の上にある。神はわたしたちの姿を知り、ちりにすぎないことを心に留められる。人の日びは草のよう 野の花のように咲く。風が通り過ぎると消え去り、その場所を訪ねても、だれも知らない。いつくしみは、神をおそれる者の上にとこしえに注がれる。その正義は子孫に及び、契約を守り、さとしを心に留めて行なう者に及ぶ。(詩編103より)

奉献文(死者がキリストを通して、父である神のもとに迎えられるように祈ります)

司祭 : 主は皆さんとともに
一同 : また司祭とともに
司祭 : 心をこめて神を仰ぎ
一同 : 賛美と感謝をささげましょう。
司祭 : 聖なる父、全能、永遠の神、いつどこでも主・キリストによって…
神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終りなくほめ歌います。

感謝の賛歌

一同 : 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ。
天のいと高きところにホザンナ。ほむべきかな、主の名によりて来る者。
天のいと高きところにホザンナ。(以下略)

プロテスタントの聖書朗読

プロテスタントの葬儀は、教会正面教壇の前に柩が安置され、参列者が着席して前奏から始まります。

順序は(1)前奏、(2)聖書朗読、(3)讃美歌(一同で合唱)、(4)聖書朗読、(5)祈祷、(6)讃美歌等と続きます。聖書朗読に用います内容は、詩編90編、コリント第一の手紙15章 50~58 節、ヨハネ黙示録 21章1~8などが多く用いられています。

経典
前奏
聖書朗読(次の中から適当に用います)

1)わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。(ヨブ記19章25~27)

2)わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ2章25.26)

3)またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた。「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。(黙示録14章13)

讃美
歌聖書朗読(次の中から適当に用います)

主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。あなたは人をちりに帰らせて言われます。

1)「人の子よ、帰れ」と。
あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえ出る青草のようです。あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。

われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。われらのすベての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは70年に過ぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。

しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがって、あなたの憤りを知るでしょうか。

われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。主よみ心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください。あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災にあった多くの年とに比べて、われらを楽しませてください。

あなたのみわざを、あなたのしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。(詩編90編1~17)

2)兄弟たちよ、わたしはこの事を言っておく、肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらせられ、わたしたちは変えられるのである。

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。

主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(コリント前書15章50~58)

般若心経

大乘仏教でもっとも早く成立し、大乗仏教興隆の力となった経典です。

日本の仏教宗派の中で、浄土真宗と日蓮宗の諸派を除いて、すべての宗派で読誦されています。正しくは『摩訶般若波羅密多心経』といい、「真実の智恵の究極」という意味があります。本文わずか262文字の般若心経の内容は、「空」。つまり「観音様はこの世のすべてのものが『空』であると悟られ、一切の苦しみを克服された」と述べています。大いなる智恵の完成によって「空」を悟り、彼岸に至ることを教えています。

経典

意訳

観音菩薩が、智慧を完成するための行をされている時、人間を構成する五つの要素がどれも実体がないと見極めて、すべての苦を取り除かれた。

舎利子よ、形あるものは実体がないし、実体がないから、形あるものとして存在するのである。形あるものは実体がないが、実体のないことが、そのまま形となっている。他の心の働き(受、想、行、識)も、全く同じである。

舎利子よ、この世の法則には実体がないから、本来生じることも滅することもない。汚れでも清らかでもなく、増えることも滅することもないのである。だから、実体がないことの中には、形はなく、感覚も念想も意志も意識もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心という感覚器官もない。形・音・香・味・触覚・心の対象といった器官に対する対象もないし、それを受けとめる眼識から意識までの分野もない。さらに悟りに対する無知もないし、といって無知がなくなることもない。

そしてついには老と死もなく、老と死がなくなることもない。苦しみもその原因も、それをなくすことも、なくす方法もない。その結果、智を持つことも得ることもない。得ることもないから、悟りを求める者は、智恵の極地に住する。かくて、心に何のさまたげもなく、恐れもなく、誤った考え方から離れているので、永遠に静かな境地に安住するのである。

智慧の極地に住する過去・現在・未来の仏たちは、この上ない悟りを得るのである。したがって次のように知るのがよい。

智恵の極地こそが偉大な悟りのためのこの上なく、比較できない真言なのである。これこそが、あらゆる苦を除く、真実そのものである。最後に智意の極地の真言をいおう。往き往きて、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。

自我偈(じがげ)(法華経寿量品)

『妙法蓮華経』の第16「如来寿量品」は最初の一句が、「自我得仏来」ではじまっているために『自我偈』とも呼ばれています。そこでは、仏は人々を救済するために仮に地上に姿を現わされたが、本来は永遠の昔から悟りを開いており、この仏の命は永遠であるという立場が取られています。そしてその仏のことを、久遠実成(永遠の昔から仏となっている)の釈迦牟尼仏と呼んでいます。そのことについてのべているのが、この第16章です。この経典は日蓮宗や天台宗の葬儀などでも唱えられています。

経典

意訳

私が仏になってから経過した期間は、百千万億という長い時間です。その間に教えを説いて数限りない人々を教化し、仏の道に導いてきました。それから長い時間が経過しました。人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。人々は私の死を見て、私の遺骨を供養し、私をなつかしく思い、慕い敬う心を起こしました。人々が信仰心を起こし、心が素直になり、仏に会いたいと願い、そのために命も惜しまないように、その時私は、弟子たちと霊鷲山に姿を現します。そして人々に語ります。

「私は常にこの世界にあり、不滅ですが、人々を導く手段として死んでみせたのです」と。他の国土の人々も、私を信じ敬うならば、その人々のためにも、「私は最高の教えを説くでしょう」。あなたたちはこれを信ぜず、私が死んだと思っています。私がみるところ、人々は苦しみの中にあえいでいます。だから姿を現わさず、すがる心を起こさせたのですが、今私を仰ぐ心が起こったので、こうして姿を現し教えを説くのです。

私の神通力はこのようにすばらしく、永遠の昔から、常にここ霊鷲山や、またこの世界の場所にいます。人々がこの世が終わりを迎え、種々の災害が起こると思っているときでも、私の国土は安らかで天人や人々で一杯です。その世界の花園や宮殿は、種々な宝石で飾られ、木々には多くの花や実がなり、人々はそれらを楽しんでいます。天人たちは天の楽器をならし、常に多くの音楽を演奏し、マンダラの花が、仏や人々の上に降り注いでいます。私の国土は不滅であるのに、人々はこの国土の終わりが迫って、あらゆる苦しみや悩みに溢れていると錯覚しています。

罪を重ねてきた人々は、悪い行為の結果、どんな長い時が過ぎても、仏の教えを聞くことができませんが、善い行為をなし、心が素直な人々は、皆私の姿を見られますし、私の教えを聞くこともできます。こうした人々に、仏の寿命は永遠であると説き、やっと仏の姿を見ることができた者には、仏の姿を見るのは困難だと説きます。

私の智恵の働きがこれほど優れ、その光はどこまでも照らし、寿命が永遠なのは、過去の長い間の修行の結果なのです。もしあなたたちに智恵があれば、私のいったことを疑ってはいけません。疑う心を完全になくして下さい。仏の言葉は常に真実です。例えば医者が、狂った子供たちを技法を以て救うために、生きているのに死んだと言ったのが嘘でなかったように、私も人々の父として、彼らの苦しみを救おうとしているのです。

人々は迷っているので、私が死んだと錯覚しています。私が常に姿を現わしていますと、なまけ心を起こし、欲望に捕われて、悪世界に堕ちることになります。そこで私はいつも人々が、正しい道を歩んでいるかを見極め、どうすれば救えるかを考えながら、ふさわしい教えを説いています。そして常に、「どうすれば人々を最高の教えに導き、一刻も早く仏に成るだろうか」と常に念じているのです。

観音経(法華経普門品)

『観音経』は法華経のなかの「観世音菩薩普門品第二十五」という一章です。ここでは、観世音菩薩が、私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に際し、観世音菩薩の偉大なる慈悲の力を信じ、その名前を唱えれば、必ずや観音がその音を聞いて救ってくれると説いています。臨済宗での安骨諷経などに用いられています。

経典

意訳

仏は優れた姿をしておられるが、私は今重ねて次のことをお尋ねしたい。仏子は、どうして観世音と名づけられるのか。優れた姿の仏は、詩の形で次のように無尽意菩薩に答えられた。

観音の修行がどんなに優れているかをよく聞くがよい。広き誓願は海のように深く、どれ程の時間をかけても人間の知恵には思いもおよばない。何千億の仏たちのもとで、大いなる清らかな願いを起こした。今私は、あなたのために簡単に説明しよう。

この菩薩の名を聞き、その姿を見て、心にしつかりとどめて空しく生きることがなければ、あらゆる苦しみは消滅する。たとえ悪人が、悪意をもって燃えさかる火の穴に落とされても、観音の救いを心から念ずれば、火の穴はたちまち池に変わる。

あるいは大海の中を漂流して、龍や怪魚や鬼などに襲われても、この観音の救いを心から念ずれば、波の中に溺れることはない。あるいは人に高い山の項きから落とされても、観音の救いを心から念ずれば、太陽のように空中にとどまることが出来る。

あるいは悪人どもに追われ、高い山から落ちても、この観音の救いを心から念ずれば、髪の毛一本傷つかない。また強盗に囲まれ刀で殺されそうになっても、観音の救いを心から念ずれば、彼らの心はたちまち優しくなってしまう。

あるいは国王に捕えられ、刑場で処刑されそうになっても、この観音の救いを心から念ずれば、刀がばらばらに折れてしまう。あるいは牢屋に入れられ、鎖につながれても、この観音の救いを心から念ずれば、たちまちに鎖は解けて自由となる。

あるいは呪いや毒薬のために命が危険にあっても、この観音の救いを心から念ずれば、殺そうとした人にそれらが戻っていく。あるいは悪鬼や毒龍といったさまざまな怪物に出会っても、この観音の救いを心から念ずれば、どれもが害を与えないようになる。

もし猛獣に囲まれて、牙や爪で殺されそうになっても、この観音の救いを心から念ずれば、どこかへ走り去ってしまう。とかげ、ヘび、まむし、さそりなどが毒気を吐いても、この観音の救いを心から念ずれば、念ずる声を聞くやはたちまちいなくなってしまう。天がとどろき、いなずまが光り、ひょうが降り、大雨が降っても、この観音の救いを心から念ずれば、たちまちそれらは消散してしまう。

人々が困難にあい、さまざまな苦しみにさいなまれるとき、この観音の優れた力が、人々の苦しみを救ってくれる。神通力を全部そなえ、智恵に富んださまざまな手段によって、あらゆる方角にある国に姿を現わし、どんな国でも現われないことはない。観音菩薩はさまざまな悪趣に出向き、地獄・餓鬼・畜生などによる苦しみと、生老病死の苦しみを、神通力と方便によって滅ぼしていく。

観音菩薩は真実の観、清浄の観があり、広大な智恵の観、憐れみと慈しみの観が備わっている。だからいつも観音菩薩の出現を願い、その姿を仰ぎみるべきである。観音菩薩は汚れなく清らかな光に包まれ、太陽のごとき智恵の輝きがすべての闇を取り除き、よく炎の風や火を吹き消し、世間を照らす。あわれみの心は雷のように人々を守り、いつくしみの心が雲のように人々覆う。永遠の教えの雨を降らし、人々の煩悩の炎を鎮める。争いにまきこまれ法廷に連行され、戦場で死の危険にさらされたとき、この観音の力を念ずれば、あらゆる敵はみな逃げてしまう。

観音菩薩は優れた音、世間を観る音、梵天の音、大海の音を持ち、世界のあらゆる音に勝る音を持っている。したがって常にこの観音を念ぜよ。一念一念に念じて決して疑ってはならない。この観世音という浄い聖者は、苦しみや死の苦難が訪れたときに、最後のよりどころとなるのである。あらゆる功徳を持ち、慈悲の目をもって人々を眺めている。その福の集まる姿は無量であり、だからこそ礼拝すべきである。

光明真言

光明真言は天台宗や真言宗で常用されている陀羅尼です。光明真言を加持し、その土砂を遺体または墓地にまけば、死者の罪は消滅し、極楽往生が約束されるという教えが伝えられ、実施されていました。

経典

意訳

これから唱える光明真言は、大日如来にあまねく仏門に導くところの限りなく徳の力を、23の文字にまとめたものである。心を無にして、それに集中して唱えるれば、仏の光明に照らされ、迷いの霧が自然と晴れて、本来の清らかな心が明かとなり、曇りのない月のように円くなるであろう。

「帰命し奉る。不空なる大日如来よ。大印よ、宝珠・蓮華・光明を汝は展転せしめよ」

舎利礼文

『舎利礼文』は、葬儀や枕経などに読誦されます。道元禅師の火葬の際にも読誦されたこともあり、曹洞宗で主に用いられています。その内容は釈迦を慕ってその遺骨を礼拝するお経で、釈迦の本質(法身)は永遠であり、人間界に現われて救いの道を教え、永遠の世界に帰られた。

私達も仏の慈悲の力によって悟りの智恵を求める願いを起こし、修行して大智を完成するというものです。原文は四言十八句の短いもので、唱える時は3回繰り返します。

経典

意訳

一心をもって礼拝したてまつります。

全ての徳を持ち合わせた釈迦如来の本身の舎利(骨)は、本来は永遠不滅の法であり、法界の塔婆であります。

私達は礼敬します。私の身をもって入我我入(我が如来に入り、如来が我に入り、衆生即仏と観ずること)し、仏の慈悲の力ゆえに、私は迷いを断って得られた悟りの智恵を証します。願わくば仏神力により人々を利益し、菩提心を発して菩薩行を修行し、悟りの境地に入って大智が平等となりますように。今まさに頂礼したてまつる。

白骨の御文章

これは浄土真宗の中興の祖といわれています第8世蓮如上人が、真宗の教えを一般の信者に教えるために、平易に述べたもので80通が納められています。そのなかでも、第16通は、「白骨の御文章(御文)」として、人間のはかなさを諭したもので、葬儀や法事などで用いられています。

経典

意訳

人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそはかないものは、あっというまに迎える人生の最期である。いまだかって万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。現在でも百年を生きることは難しい。自分が先になるか、人が先になるか。今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない。無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。恐れ多いことよ。恐れ多いことよ。

無量寿経

「無量寿経」は、浄土三部経の中でもっとも長く、浄土宗、浄土真宗の経典の一つです。このお経は、霊鷲山で釈尊が阿弥陀仏について説法するという内容です。

ある国王が出家して法蔵比丘となのり、阿弥陀仏となって西方に浄土をかまえ、一切の人々を安楽にしようという誓願を立てられました。この経典では法蔵比丘の誓願とその完成、及び極楽世界が描かれています。

経典

意訳

お釈迦さまが説かれた無量寿経の内、法蔵菩薩が4つの誓いをのべる歌。

わたし法蔵菩薩(阿弥佗仏の成仏以前の名)は、世の常を超えた48の誓願を建てました。必ずこの誓願を達成して最高の悟りに到達します。この誓願を達成出来なければ、決して自分だけが悟りを完成しないと誓います。

わたしは、永遠に時が続くかぎり、財と法を施す者となって、智意も財力も無い人々をもれなく救えないなら、決して自分だけが悟りを完成しないと誓います。わたしが悟りの段階に到達して、わたしの名があらゆる地方の国々を超えて響きわたり、隅から隅まで聞かれるようにならなければ、決して自分だけが悟りを完成しないと誓います。

欲を離れ、皮相の観察を捨て、深く実理を考え、清らかな智意をみがき、清浄な生活を実践し、最高の悟りを願い求めて、もろもろの天人や人類の師となりましょう。

悟りによって得られる不思議な力によって仏の智慧の光を増し、果てしない国々を隅々まで照らし、むさぼりや怒りや愚かさ等の迷いを消し去って、広く多くの災難を救い、人々の智恵の眼を開いて、無知の闇を滅ぼし、地獄・餓鬼・畜生の世界に輪廻する道を閉ざして、善い世界への門に到るようにしましょう。

悟りを開いて仏の位に到達することが出来るなら、光の輝きは十方の国土を照らし、太腸や月でさえも二通りの輝きをおさめ、天空の光もかくれて見えなくなるでしょう。

人々のために仏教の蔵を開き、宝にたとえられるはたらきを広く施し、大衆の中で、獅子がその威力を示すように、高らかに仏教を説きましょう。

観無量寿経

浄土三部経の一つで「観経」とも呼ばれます。「観」とは見るという意味で、観無量寿とは阿弥陀仏や西方浄土を観想するところから名付けられたものです。内容は、釈尊が霊鷲山にいたときのこと、韋堤希夫人が親子の争いに巻き込まれ、そうした争いのない平和な世界に生まれるために釈尊に相談するところからはじまります。釈尊はこの経典のなかで、極楽浄土に往生するための16の観想法を説き明かしたのです。

経典

意訳

釈尊は阿難とマガダ国王の韋堤希夫人に言われました。ここまで思い浮べが終了したら次に阿弥陀の身体の様子と光明を思い浮べなさい。

阿難よ、知るべきです。阿弥陀の身体は天空の彼方の勝れた世界、夜摩天の紫金を百千万億も集めたように輝き、その身のたけは、六十万億の千億倍にガンジス河の砂の数をかけた由旬(約120キロ)ほどの無数の高さがあり、眉間の光毫は右にうずまいて、須弥山を5つあわせたほど高大です。

仏の眼は須弥山の周囲の四つの海洋の水のように青白で濁りなく、身体の毛孔からは須弥山のように高く光明を放出し、阿弥陀の後に映える円光は、百億の全宇宙のようにひろがり、その円光の中には、百万億の千億倍にガソジス河の砂の数をかけたほどの無数の仏が、時と所に応じた仮の姿を表し、その仮に現われた仏にはまたそれぞれ無数の菩薩が、おつきの侍者となっているのです。

阿弥陀には8万4千の勝れた特徴があり、その特徴はさらに8万4千の附属的特徴があり、それぞれに8万4千の光明があるのです。その光明は十方の世界を照らし、念仏を称えるすべての人を救い、一人の例外もありません。この阿弥陀の光明や身体の勝れた特徴や無数の仏について、詳しい説明は出来ません。ただ心に思い浮ベ、心眼でよく思い見なさい。

この阿弥陀の勝れた特徴を思い浮べる者は、十方の仏を思い見たことになるのです。多くの仏を思い見るこの方法を念仏三昧といいます。

この阿弥陀の特徴を思い浮べ、観法をする者は、仏の身体を思い浮べる観を行なう者と名付けられ、この観法により、また仏の心をも思い見ることが出来るのです。

仏の心とは限りない慈悲であり、平等無差別の慈悲心によって迷える人々を救われます。この観法をした者は、その生の終りに、どの仏の前に生れても、必ず極楽浄土に往生する境地が得られます。ですから心を静める観法を修する者は、熱心に阿弥陀をあきらかに観察しなさい。

回向文

回向とは自分の行なった良い行ない(善根)の功徳を他の人々にめぐらし、分かち与えることをいいます。仏事では読経の終りに回向文を読みますが、これによって経典の功徳を故人に振り向け、その力よって故人を弔う(追善供養)働きをします。

また単に故人だけでなく、すべての生き物に及ぼすという回向(普回向)もあります。はじめのものは善導の「勧衆偈」末尾の回向文、次は「法華経」の「比喩品」に出てくる回向文です。

経典

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